小学校2年生の娘。不登校、母子登校、放課後登校を経験して…

娘が幼稚園を辞めた5歳の春以降、しばらく私たちは毎日を2人だけで過ごしていました。

辞めた幼稚園で、友達から意地悪を受け続けた娘は、笑顔をなくし、友達と遊ぶことができなくなっていました。

公園へ行っても、友達と楽しそうに遊ぶ子供たちがいるのを横目で見るだけで、私と娘は毎日ブランコにのって、佇む毎日でした。

このままでは娘の社会性に影響が出てしまうと思い、娘の居場所探しに奔走しました。

そうして出会った新しい幼稚園から母子登園を始め、間もなく迎えた小学校入学。

入学式は参加できませんでした。

新しいランドセルを背負い、入学式用の服を着て、娘と私は、入学式が終わった後、先生に会いに行きました。

教室に入れない娘に、先生はくまのパペットを使って、娘に話しかけてくれました。

パペットが娘を教室の中に導いてくれました。

その日から、私と娘の母子登校が始まりました。

通常学級、特別支援級、どっち?

娘には、幼児期の幼稚園に関連するトラウマと自閉症スペクトラムという発達障害がありました。

入学当初、トラウマにより、教室での活動、子供たちとの関りが難しい状態でした。

その為、特別支援級か通常学級か、どちらに通わせるべきか、私はとても迷っていましたが、最終的に通常学級に決めました。

一番の決め手は、女の子の人数です。

特別支援級は、少人数で先生からの手厚い支援がありますが、上級生の女の子が3人しかいない為、娘と合う友達を見つけることが難しいと思いました。

通常学級には1年生の女子が15人近く居るので、仲良しの友達ができる可能性が大きいと思いました。

但し、通常学級に在籍することで、不登校や母子登校が長期化することが容易に予想されました。

それでも、1人でも仲良しのお友達ができたら、きっと娘の人生が、学校が、生きることが楽しくなるのではないかと、その可能性に掛けてみたかったのです。

不登校、そしてときどき母子登校

入学してから、最初の3週間は放課後登校を続けました。

小学生が皆帰った時間に、学校へ行き、教室へ入って先生と少しお話をした後、宿題を提出し、帰りました。

娘は朝、顔色が真っ青で動けるようになるまで時間がかかることがあります。

不登校の子によく見られる症状です。

放課後の登校が、娘にとって学校へ行き始めるのに丁度良い時間でした。

最初は3日置きに放課後登校をし始め、徐々に日数を増やしていきます。

そして、放課後登校が毎日できるようになった頃、5時間目(午後)からの登校を始めました。

最初は1日登校しては、その後、3~5日お休みという間隔でした。

学校へ行ったものの教室へ入れず、帰ったこともあります。

歩いて10分の道のりを40分かけて登校した日もあります。

教室へ入れず、別室を用意して頂き、その部屋で過ごして帰ることもありました。

登校日よりお休みの方が断然多かったです。

心がくじけそうになったことは、何度もあります。

「やっぱり支援級にした方が良かったのかな。」

「もう何をやっても登校することはできないのかな。」

「娘がこんなに苦しい思いをしてまで、学校へ通わせる意味があるのかな。」

「私がしていることは本当に娘のためになっているのかな。」

悩み続けた日々でした。

運動会でもグラウンドの内外をずっと付き添っていました。

露骨に嫌な顔をするお母さんもいました。

正直、逃げたくなるくらい恥ずかしかったです。

でも、先生たちが声をかけてくれていました。

「お母さん大丈夫だからね。」

「無理しないで下さいね。」

とても有難かったです。

不登校日の過ごし方

不登校の日は、家でゆっくりすることもあれば、買い物へ出かけることもあります。

ごくたまにですが、レジャー施設へ行くこともありました。

娘の本心は、毎日学校へ行きたいのです。

行かなければいけないこともわかっています。

子供たちが登校、下校する姿を目にしては、劣等感を日々感じていました。

それでも、心と体が言うことを聞いてくれません。

娘は

「私は学校へも行けない、なんてダメな子なの。」

と泣き出すこともあります。

私も、学校へ行って欲しいという気持ちを捨てきれませんでした。

心のどこかで、学校へ行かないことへの不安がありました。

だからこそ、そんな気持ちに負けないくらいの、楽しい時間を作るろうと私も必死でした。

娘が罪悪感に囚われないように、私が不安に押しつぶされないように、学校を休んで楽しい時間を過ごすことは何も悪いことではない、家に引きこもっていては気持ちがダメになると、外へ外へと動き続けました。

家族からは白い目で見られていました。

「無理やりにでも学校へ連れて行け。」
「甘やかしすぎだ。」
「将来どうするの。」
「情けない。」
「親失格だ。」

と言われました。

今でも、家族からの理解はありません。

精神科医の先生から

「家族だからわかって貰えるという気持ちは捨てて下さい。」

と言われました。

それは私にとってすごく大切な言葉でした。

必要な言葉でした。

私が強くならなければいけないとも思いました。

そして、家族以外の支援を頼ろうと思いました。

決して一人では不登校支援も、母子登校も続けることはできなかったと思います。

理解を持って支援を続けて下さる、精神科医の先生、臨床心理士の先生、そして学校の先生たちの支援があって、今の私たちがあると思っています。

母子登校は現在も進行中

小学校の母子登校を始めて2年目に突入しました。

1年目、毎日娘を連れて行こうと心に決めていたのは、実は学校ではなく、放課後の公園でした。

長らく幼稚園や公園でお友達を眺めている間に、娘が優しい子と、乱暴な子の違いに気がつくようになっていました。

人によって、自分に合うか合わないか、違いがあるということが理解できるようになりました。

自分が悪いから幼稚園へ行けなくなったと思い込んでいた娘に、周りが何を言っても心は動きませんでしたが、お友達の多様性に自分で気がつくことで、納得するところがあったようです。

自分が安心できるお友達と遊ぶことで、いじめられることを避けることができると学びました。

そこで、1時間でもクラスに入り授業を受けることができるようになった時、クラスメートにどこの公園で遊んでいるかを聞いては、その公園に娘と出向きました。

学校を休んだ日も、近所の公園を2、3か所巡っては、クラスメートを探しました。

毎日、日が暮れるまで娘に付き添いました。

公園へ毎日通っていると、男の子女の子問わず、クラスメートが娘を誘って一緒に遊んでくれるようになりました。

娘も、学校ではない開放感のある公園での遊びに、少しずつ笑顔が戻り、友達と打ち解けられるようになっていきました。

友達の輪が徐々に広がり、放課後、友達と遊ぶ約束をする為に、

「学校へ行く」

と言うようになってきたのです。

いつの日かのゴール

学校へ行くようになり、教室で授業を受ける際、私は娘の横についていました。

体育の時間も真横で一緒に体育座りです。

娘の様子を見ながら、私は少しずつ後ろへ後ろへと下がり、3学期には教室の一番後ろまで下がっていました。

1年生も終わりに近づいた頃、ようやく教室から出て、私は別室で待つことができるようになりました。

学校へ行きたいと話し、毎日登校する週も出てきました。

午後からの登校時間が少しずつ早くなってきました。

2年生になり、担任の先生が変わってしまい、最初からやり直しとなりました。

娘の不安が大きいので、一緒に教室へ入り、隣の席からの母子登校を始めました。

2週目には、私が

「1年頑張ったのに振りだしだ。もう限界だ。」

と眠れない夜が続きました。

それが、2週間経った頃、娘が突然

「私、大丈夫かもしれない。」

と言い、一人で授業を受け始める時間が増えていきました。

先生が変わっても、仲良しの友達の存在が大きかったようです。

正直、救われました。

2年目の力だなと思います。

成長を感じ、すごく安心しました。

母子登校を経験してわかったことは、学校で、何かあっても自分を助けられるのは自分だけということでした。

自分自身で対処できなければ、友達や先生に助けを求め、あるいは思いを共有して貰う必要があります。

それができなければ、学校での辛い、悲しい思いはどんどん蓄積されていきます。

家庭は最後の砦です。

私はもちろん娘の話を聞き、理解したいと願います。

それでも学校内で起こっていることを家で解決することは難しいのです。

だからこそ、低学年の今のうちに、しっかりと自分の思いや意見を人に伝える力を養わなければいけないと思います。

それができた時、学校での私の役割は終わると思っています。

学校へ登校できることは、もう目標ではなくなりました。

学校を含め、スポーツや興味、ボランティアなどを通して、社会への関わりを決して絶やすことなく、生きることが楽しいと思える心を育てていきたい、それが私の今の目標です。

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