学習障害の娘が支援学級に移り6ヶ月、テストで学年最高点?

私の娘は学習障害です。

昨年3年生になったとき小学校に支援学級を作ってもらい、先生とマンツーマンになると、勉強もスポーツも飛躍的に伸びました。

私が行った勉強法や関わり方をお伝えします。

始まりは民生委員

娘の学習障害が判明したのは、幼稚園年長児の1学期末、教室内で掲示されていた絵がきっかけでした。

新入学を前に行われた、市の民生委員による各園を回っての確認で、描いた絵が適正年齢より拙いと判断され、市から園を通して連絡を受けたのです。

夏休み中に発達能力を調べるMSテストを、園内で職員立会いの下で行いました。

内気で人見知りの性格から初対面の方との対話が難しく、コミュニケーション能力が低く判断されてしまい、知的能力3歳半という診断でした。

日常生活は出来ているし、それは流石に大袈裟だろうと思いました。

その後、小児科でもう一度テストをした結果、発達障害ではなく、恐らく学習障害だろうという医師からのお話でした。

私はその後、普通の子達と同じように産んであげられなかった自分を責め続ける日々に陥りました。

これといった原因の無いものですし、お母さんのせいではありませんよと医師から言われても、妊婦の時のあの行動が悪かったのかとか、こじつければキリがありません。

しかし、ある日主人から

「五体満足なのに何を悩む?普通ってなんだ?」

と言われ、目が覚める思いでした。

普通という言葉を使って悩んでいたけど、普通ってなんだ?

私の求める理想と違うだけだと気付いたら、悩む必要はないと思いました。

入学に際して学校側と話し合いを重ね、取り敢えず2年生満了時まで様子を見ましょうと言って頂き、指定学区内の小学校へ入学しました。

2という「文字」と暗記能力

実際に授業を受けてみると、国語では文章問題が特に苦手。

算数は殆ど出来ないというのが当時の状況でした。

やっぱり無理なのかなと諦めかけていた時、年子である弟が入学しました。

問題の無い学力で宿題をしている息子に、

「どうやったらお姉ちゃんに2+3を教えてあげられると思う?」

と質問しました。

すると

「僕は頭の中でお団子にしているよ」

との答えが返ってきました。

なるほどと思い、それからは、小さなお菓子を数字の数だけ用意し、足し算・引き算の問題が出来たら食べていいというルールを作りました。

お菓子を動かしながら順調に解いていき、宿題が楽しくなり、帰宅すると自らプリントを持ってくるようになりました。

学ぶことが楽しくなるきっかけになったようでした。

それでも算数はやはり難しく、学校との話し合いでも、2年生の中盤でかけ算が始まったら無理だろうから、別教室で授業をしましょうかという話になっていました。

しかし、娘はなんとクラスで一番に九九の暗唱テストに合格して、周りを大いに驚かる結果となりました。

その時、私はもしかしてと思い、近く発表がある文化祭の劇の台詞は覚えているかと質問しました。

娘は自分のたった一行の台詞だけではなく、劇全体の担当生徒名とその台詞を丸暗記していたのです。

そのことを小児科の医師に話したところ、娘はいわゆる計算障害であるということが分かりました。

娘にとって”2″という数字は、お団子が二個あるのではなく、あくまで”2″という「文字」なのだろうということでした。

私は深く納得し、目の前が明るくなったのを覚えています。

これまでの不安な思いが消え、霧が晴れるようでした。

確かに”2+3″という文章の答えがなぜ”5″なのかなんて、説明も出来なければ理解も出来ません。

なぜかけ算が出来るのかと言えば、九九は「ニサンガロク」という文章の暗記だからです。

娘が出来ない事は算数でもお絵描きでもなく「イメージとの連動」でした。

頭の中で文章がイメージに変換されないのです。

ならば、実際に指を折りながら計算すればいい。

大抵は両手の指10本で計算が出来ます。

ハートや星は厚紙を切って定規にし、周りをなぞって描き方を覚えさせました。

そして、他に特化している部分をしっかり伸ばしてあげればいいと思いました。

やはり、娘はとことん暗記力に特化していました。

何時、誰が、何処で何と言ったのかを正確に教えてくれます。

そういえば幼稚園時代、人の顔を覚えるのが苦手な私に代わり、相手が誰のお母さんなのかをいつもこっそり教えてくれていました。

支援学級創設

3年生に進級する時、入学時から市に申請していた支援学級の創設が叶いました。

元から日常生活に殆ど支障は無かった為、普通学級でもなんとかなるとのお話でしたが、主人と相談をして支援学級への編入を決めました。

始業式の日、新しい教室を覗きに訪れた多数の児童の中に、私達の目の前で

「馬鹿になればこんなに広い教室に居られるなら、それもいいなぁ~」

などと言う子がいました。

予想はしていましたので、こんな時の為に私は入学時から、周りのお母さん達と友好な関係を築くことに努めていました。

娘に何があっても分かるように、助けてくれる人に繋いであげられるように、多くの瞳で見守ってあげられるように、横のパイプラインを大切にしていたのです。

娘を可愛がってくれているPTA役員が話を聞き付け、学校側から文章で全校に連絡が回りました。

有り難かったです。

各クラスに何人かグレーな子はいるものですが、スタート時ということもあり広い教室に一人、担任とマンツーマンの学校生活が始まりました。

算数や国語は支援教室で担任の授業を受け、体育や理科、音楽など他の教科は3年生のクラスで受けるというスタイルです。

朝と帰りの会は支援教室。

給食は3年教室。

クラス懇談会は支援教室。

学年行事は3年生と一緒という具合でした。

勿論、様々な葛藤はありました。

内申書に「支援学級在籍」と記載され、それによって受験すら出来ない高校もあります。

でも、娘に合った勉強や日常生活のやり方を先生と見付けていければいいなと思い、移ることにしました。

初めてのクラスの生徒なのだから、娘が楽しく学校生活を送れれば、陰で同じように悩んでいるお母さん達に選択肢を示せるのではないかと思ったのです。

見本・お手本になったらいいなと思いました。

能力開花のキーワードは「自信」

私達は担任の先生と「いつでも授業参観権」を約束してもらいました。

仕事の合間や休みの日、娘が嫌だと言う授業は隣で一緒に受け続けました。

2ヵ月も過ぎると不安を訴えなくなり、教室の外からこっそり覗きに行く事も無くなっていきました。

支援学級に移って半年後、私達家族や先生方も驚いた程、娘の能力は飛躍的に伸びました。

漢字のテストで学年最高点を取り、最後尾を走っていた校内マラソン大会で2位になり、県の書写コンクールで特選を受賞しました。

そしてなにより、娘はとてもよく話し、よく笑い、とても明るく活発な子になりました。

娘にとって一番必要だったのは、安心出来る居場所と、自分を肯定してくれる人達。

そして何より、自信でした。

障害の正体

8年という年月を掛けて気付いたことは、娘を障害児にしていたのは私だったということです。

これが出来ないからこれも無理でしょう。

出来ないからやらなくていいよ。

あなたならこんなもんでしょう。

そんな思いが、娘を本来の姿から遠ざけていたのです。

とても申し訳なく、恥ずかしい思いでした。

もっと早く、娘のオリジナリティを認め、褒めてあげられていればと反省しました。

娘はあんなに大嫌いだった学校に、今日も元気に

「行ってきます!」

と笑顔で駆けていきました。

現在、とても頑張り屋で笑顔が可愛く優しい娘は、私の何よりの自慢です。

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