娘の病気を認めない夫、喧嘩の絶えない日々から訪れた平穏…

夫と別居に至るまでの10年間、私は子育てを一人でしてきました。

根本的な子育てに関する考え方の相違は、何年経っても夫婦間の溝を大きくするばかりでした。

夫はいつでも妻は子供より夫を優先すべきだと考える人でした。

子供に病気があっても、辛いトラウマがあっても、夫の中でいつでも子供は二の次でした。

それが私には耐えられなかったのだと思います。

一緒に考え、悩み、そして解決策を探して欲しかった。

周りのお母さんからよく聞くのは、

「子供のことを夫に相談するべきではない、相談しても無駄だから。」

という話でした。

実際、我が家の場合は、その通りだと思いました。

夫に相談することを止め、信頼できる精神科医や幼稚園、学校の先生たち、そして地域の相談場所で話を聞いて貰い、一緒に解決の糸口を探って貰いました。

家族ではなくても、理解し、共感して貰える人がいるということは、子育てをする上ですごく大切だなと日々感じます。

私は夫に頼ることをやめて、経済的には負担が大きくとも、心は物凄く軽くなりました。

出産の手伝い

私はアメリカで出産しました。

双方の両親が渡米できない状況でしたので、夫は、2週間の有給休暇を取りました。

アメリカでは妻の出産に伴い、2週間の休暇を取ることは全く珍しくありません。

通常、アメリカでは出産直後から、赤ちゃんは母子同室になりますので、個室の病室でお父さんのために仮設ベッドも常備され、お父さんも泊まれるようになっています。

赤ちゃんが泣けば、看護師ではなく、両親が面倒を見なければなりません。

私の場合、徹夜の出産で、明け方に娘が生まれました。

その後、すぐに娘と同室になりましたが、夫に私は疲れて仮眠を取りたいので、娘の面倒を見て欲しいとお願いして眠りにつきました。

私が仮眠を始めてしばらくして、娘が泣き始めました。

私は疲れている体を起こし、無理やり目を開け、夫を見ました。

夫は、同室の仮設ベッドで熟睡していました。

夫に声をかけても起きないので、痛い体を引きずりながら夫を起こしたところ

「うるさい」

と一蹴されました。

今度は体を引きずって、反対側のベビーベットに近寄り、そっと娘を胸にだきました。

夫が起きるまで、私がずっと面倒を見るしかありませんでした。

昼過ぎになり、夫が起きて子守を交代して思えると思った瞬間、

「赤ちゃんが生まれたから、俺は仕事をより一層頑張らなければいけない。」

と言い放ち、赤ちゃんを少し抱いたかと思えば、すぐにパソコンを持って、ロビーに去っていきました。

まずはタバコで一服。

その後はパソコンにまっしぐらです。

夫は何のために休みを取ったのか、私は愕然としました。

産後1日目から、娘が泣く度に激痛が走る体を起こしては、娘を抱きあやし続けました。

疲れ切っている私の様子を見て、ようやく看護師さんが

「2時間までならナースステーションで赤ちゃんの面倒を見てあげられるから。」

と言って下さり、私はすぐにお願いしました。

出産後2日目で退院し、娘の面倒と家事は、3日も経たないうちから、一切私に任されるようになりました。

仕事をしたいからと、毎日どこかへでかけてしまう夫。

私は初めての育児と、痛む体とで疲れ切ってしまいました。

赤ちゃんは寝てばかりだから楽だろうと言い、赤ちゃんにとって母乳が一番だからと、夫が一人で面倒みることなど一度もありませんでした。

子供の病気

私は娘の体に異変があると気がついた頃、義理両親がアメリカへやってきました。

私は産後からずっと疲れている上に、義理両親の面倒なんて見ることができないと断りましたが、夫は

「なんでひどい嫁だ。
 孫を祖父母から引き離そうとするなんて。」

と聞く耳を持ちませんでした。

娘をどうしても見たいと、義理両親が強く主張し、結果的に私は何もおもてなしをしないという条件で、受け入れることにしました。

当初、我が家に2週間泊まると聞いていたはずが、最終的に2か月泊まっていました。

義理両親は、私が両親より早く起き、朝食を作ることを望んでいたようですが、私は断固拒否しました。

そして、娘の体の異変を夫に訴えたところ、夫の両親が娘を見て

「全然異常なところはない。健康な赤ちゃん。
 母親が神経質だからそう思うだけだ。」

と夫に話しました。

夫が信じたのは義理両親の言葉でした。

私が娘を病院に連れていく日、夫も一緒に行きました。

そこで、私は専門医に

「娘の様子がおかしいです。胃液が逆流しているようです。」

と話すと、横から夫はこう言いました。

「私の妻は精神的におかしいのです。
 私には、娘は何も問題なく健康な赤ちゃんだとしか思えません。」

先生は困っていました。

私は帰宅後、すごく恥ずかしいと共に、物凄く腹が立ちました。

「1日中娘の世話をしているのは、誰だと思っているの。
 私の邪魔をするなら、もう病院へ付いてくるな!」

と初めて怒鳴りました。

夫は

「勝手にすれば良い。」

と言うだけでした。

娘に正式な診断が下りてもなお、夫は病気に真摯に対応する姿はありません。

生後2か月で「胃食道逆流症」発作から呼吸停止も?眠れない日々

2019年4月14日

どこか他人事で、どこか信じていない様子です。

7年経って思うことは、夫は弱い人間だということです。

娘の病気を認めることが怖いのです。

病気を認めるということは、娘が完璧な人間ではないということを受け入れるということです。

もちろん、完璧な人間なんていないのですが、夫にとって娘は健康で頭が良くて可愛い、問題なんて何もない娘でなければ受け入れられないのだという事実に、ようやく気がつきました。

でも、当時は、どうしたらわかってくれるのだろうと一生懸命説明しようとしては、全く聞いてくれない夫に、イライラする日々でした。

子供の病気を聞きたくない、わかりたくないという親がいるなんて、まさか夫がそんな人間だとは思いもしませんでした。

娘の不登校に対して

娘が幼稚園でのトラウマから、5歳から不登園になり、小学校も最初は放課後登校しかできませんでした。

「幼稚園いきたくない」に秘められた悲痛な娘の思い、葛藤の日々

2019年5月5日

小学校2年生の娘。不登校、母子登校、放課後登校を経験して…

2019年5月13日

夫は私に

「無理やりにでも学校へ連れて行け。
 学校へ行かないなんて、甘やかしすぎだ。
 泣いても暴れても無理やり連れて行け。」

と言われました。

私は、娘の辛い気持ちを話しました。

どうにかわかって欲しいと思ったからです。

それでも、

「学校へ行かせないなんて、それでも母親か。」

と責められる日々でした。

娘は、また仲間外れにされるのではないか、ずっと一人ぼっちになるのではないかと、物凄く大きな不安と戦っていました。

さらに、鮮明なトラウマが学校にいることで常に脳裏をよぎります。

こんなに娘が苦しんでいながら、学校へ無理にでも通わせることは、私にはどうしてもできませんでした。

私は悩みましたが、決して娘を無理に学校へ通わせることはしませんでした。

そして、心の中で、夫に何を言われても娘を第一に考え守ることを決めました。

そして、私が一番娘にとって何が良いのかわかるはずだと、自分の考え、やり方に自信を持つように心がけました。

同時に、子育ての全責任を自分で取ることに決め、夫に相談することも頼ることも一切やめることにしました。

きっと私のその決意は、言動に現れていたのだと思います。

夫は、私に怒りをぶつけるようになりました。

「俺の言うことを何で聞かないのだ。
 何を言ってもお前は決して俺の意見を参考にしない。」

喧嘩が絶えない毎日になりました。

働くこと

私は娘が登校したい日はずっと学校についていきました。

母子登校です。

「母子登校する暇があるなら、働いてくれ。」

と夫に言われることもありました。

そこで、私は、在宅の仕事を始めました。

朝から午後まで娘と母子登校して、放課後は娘のために公園でクラスメートを探して遊びに付き合い、帰宅は夕方です。

夕方から家事を始めると、あっという間に寝る時間です。

トラウマのため、娘の寝かしつけに3時間かかり、夜中は持病の看病です。

持病の看病の合間に、在宅の仕事をこなし、明け方に就寝することも多々ありました。

その為、在宅の仕事量に限界があり、収入が少ないことで夫は

「母子登校を続けるのなら、早朝新聞配達のバイトをしろ。」

と言い出しました。

私は限界に達しました。

「娘の看病は誰がするの?夜お酒を飲まないで、娘の看病をしてくれるというのなら、私はいくら仕事をしても構わない。
 でも、あなたは毎晩お酒を飲んで、娘が苦しんでいても決して気がつくことも、起きることもないじゃない。
 娘の看病をせず、私が家を空けたら、娘の面倒は誰が見るの?」

と私は言いました。

夫が返事をすることはありませんでしたが、もう私には夫との生活が限界でした。

別居という選択

夫が家にいる時間、私にはいつの間にか笑顔が消えていました。

笑うことができなくなり、夫が帰ってくる音がすると息切れがするようになりました。

次第に朝は、夫が家を出てから部屋を出て、夜は夫が帰る前に必ず娘と部屋にこもるようになりました。

それでも夫が帰宅すれば胸が苦しくなり、短い睡眠もままならなくなり、ようやく

「このままでは私が倒れる、もう限界だ。」

と思い、娘と家を出る決心をしました。

プライドを傷つけられた夫は

「家を出て行ったからには、離婚だ。」

と言いました。

娘と母子登校中の身で、働くことができない私は、離婚と言う言葉に物凄く不安になりました。

私が耐え続ければ良かったのか、私の我慢が足りなかったのか、娘から父親を奪って良いのか、娘に貧しい生活をさせることになっても良いのか、後悔という2文字が頭をよぎります。

それでも、夫がいる家へ戻りたいと思ったことは一度もありませんでした。

不安で押しつぶされそうな夜も、もう一度一緒に住みたいとは全く思いませんでした。

どうしたら良いのか、どうしたら経済的に自立できるのか、いくら悩んでも、私が働く以外に方法はありません。

娘に

「お願いだから一人で学校へ行って欲しい。」

とお願いしたこともあります。

娘は泣きながら、

「ごめんね。
 ママ、どうしても、どうしてもできないの。」

と言いました。

私は、なんてひどいお願いをしてしまったことかと、胸が押しつぶされるような思いでいっぱいになりました。

これでは、本末転倒ではないかと反省しました。

何のために夫と別居したのか、娘との生活を守るためではなかったのか、もう一度私がこれからどうすべきか、必死に考えました。

私は、どんな理由があっても、どんなに貧しくて福祉に頼らなければならなくなってしまったとしても、娘との母子登校は必ず続けようと心に決めました。

娘の今を守らなければ未来はありません。

小学生低学年のうちに、安定した心の土台を築いてあげなければ、今、無理して一人で登校させたとしても、いずれ必ず、学校へ行けなくなる日は来るだろうと思いました。

学校へ行きたくても行けないことは、とても苦しいことです。

自分に自信がなくなってしまいます。

娘が低学年の今、学校へ行きたい気持ちがあって、私と一緒だったら行けるというのであれば、娘が自分で

「もう大丈夫だよ。一人で行くよ。」

と言える日まで、一緒に登校することを一番に考えて生活していこうと決めました。

そして、私が揺れてはいけないと、決めたことを貫き通す強さを持たなければいけないと強く思いました。

ふっきれた私に、次第に笑顔が戻りました。

笑顔が戻って初めて、ずっと笑えなかった自分、自分らしく生きることができていなかった今までの生活に気がつくことができました。

今は、娘のことを第一に考え、穏やかに日々の幸せを感じる毎日です。

別居して現在、離婚協議中ですが、今は夫から離れて心から良かったと思っています。

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